私たちには「心」がある。あまりにも当然なことであるが、同様に当然のこととして「身体」もあると言うことが出来る。さらに、私たちが生きるとき、「心」が周囲の世界を見るのであるが、この時、「身体」を通じて見ていると言うことが出来る。つまり、私たちが世界と関わることが出来るのは、身体があるから、または私たちがまさに身体であるからと言ってよいであろう。「身体」によって私たちは直接「他者」に接したり「世界」を見たりすることが出来るのである。他方で、私たちの「心」は身体と同じような仕方では世界と関わることのない、目には見えない、いわば外から隠された側面を持っている。こうして私たちは目に見える「身体」と目に見えない「心」とを区別し、「心」の方を「身体」よりも一層大切なものとして語ったり、また「心」によって「身体」を「支配」したり、「身体」が(「心」の)言うことをきかないなどと言って、両者をめぐって何らかの作用関係を語る、という現実をもつ。しかしそれらの語り方が語ろうとしている事柄とは何であろうか。一体「人間」において、「私」において、「心」と「身体」とはどのように位置付けられるものであるのか。 このような問題意識の下に、前期は西洋古代における多様な「魂論」を通覧し、それらがどのような人間理解を構成するのか、また人間の理想的生き方を追究する立場とどのように結びついているかを見ていきたい。
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