異文化コミュニケーション研究所
    Intercultural Communication Institute

 
報告書

倉持益子(本学留学生別科)

【山折哲雄先生の基調講演要旨】


1.9.11同時多発テロとブッシュ大統領の演説
 アメリカ同時多発テロ2年目の翌日に、日本人と宗教のかかわりについて話すことに、仏教で言う「因縁」を感じる。ブッシュはテロの 犠牲者を悼む演説で「われわれは今死の谷を歩んで、神の御加護の下に耐え進んで行こう」という旧約聖書のダビデ王の演説から引用し た一説を用いた。国家の危機に直面し、自分を励まし、その犠牲となった家族を慰め、さらにアメリカ及び全世界に送るメッセージに旧 約聖書が使われたことを、山折氏は予感していた。また、イラク進攻に赴くアメリカの戦車隊員たちの胸のポケットにはお守りのように 「毒蛇とまむしを踏みにじり神と共に進軍しよう」というモーゼの詩の一説が入っていたという。この場合の毒蛇・まむしとは異教徒の ことであろう。この言葉と共に進軍したアメリカ中心の軍に、イラク側はジハード(聖戦)という言葉を持って対抗した。
 危機的状況の中で戦いに立ち上がろうというときは旧約聖書の言葉で、平和の秩序を回復しなければならないときにしばしば持ち出され るのが新約聖書である。旧約聖書の神は、怒りの神であり、罰する神である。それに対して新約聖書は、許しと愛の神といえる。旧約の 神と新約の神は、今までも歴史の中でうまく使い分けられてきた。
 今回のイラク進攻も含めて歴史上かつて起こった戦争は、文明の衝突、宗教の対立が原因であると短絡的に言うことは出来ないが、そ の底流にはユダヤ教・イスラム教・キリスト教の問題が伏流水のように存在している。西洋社会というのは、グローバリゼーションとい われるようにその社会システムを普遍的価値観として世界に広げていこうとする積極的な意志をもっている。その際に、旧約的なムチ、 新約的なアメの価値観を戦略的に使い分けている。
 翻って我々は、危機に際して旧約の言葉のように人々を奮い立たせるような言葉を持っているとはいえない。それに匹敵するようなも のはないということは何を意味するのか。

2.イスラエルの旅−砂漠の150キロと聖地エルサレム
 阪神淡路大震災・オウムのサリン事件が起こった1995年以降、日本人は宗教とか精神的世界に関する感受性が変わった。天災や宗教に 人力を超えた恐ろしさを感じ、日本人の心の根拠はどこにあるのかを反省する気持ちがこの年に生まれたのではないか。
 この年の秋、イスラエルに行き、イエスが伝道活動した道をたどる旅をした。イスラエル北方のナザレは、砂漠に石造りの家がぽつん ぽつんとある場所であった。そこは、エルサレムまでの150km行けども行けども砂漠で地上に頼るべきものなど何もなかった。ガリラヤ 湖やヨルダン川にいたっても周囲は砂漠であった。このような頼るべきものが地上に一切なく、はるか天上にのみ、それを求めざるを得 なかった世界こそが一神教の生まれる風土である。
 エルサレムにはユダヤ教徒の嘆きの壁とイエスキリスト昇天伝説の聖墳墓教会、それにイスラム教の信仰の場所で聖なる大岩のドーム が、すぐ近くにあり、一触即発の状態で危うい均衡を保っている。そして、すぐ近くにありながら異教徒が訪ねあうことは無い。日本の 四国八十八箇所などの聖地巡礼など多神教的世界における聖地巡りは常に円運動であり、一ヶ所の中心的聖地に行って帰ってくるような往 復運動はしない。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教信者がそれぞれの宗教を超えた聖地めぐりをするようになれば、パレスチナ、イスラエ ル問題の解決の糸口が見つかるかもしれない。しかし、帰国直後、パレスチナ和平に貢献したとされるイスラエルのラビン首相が暗殺さ れたというニュースが流れた。

3.天然の無常と慈悲の道徳
 砂漠地域から生まれた一神教に対し、日本は八百万の神が住まう多神教的な風土を持っている。この日本の風土について語った二人の 人物がいる。それは、物理学者寺田寅彦と哲学者和辻哲郎である。寺田は日本人の自然観を西ヨーロッパと比較した。西ヨーロッパは概 ね地震が無く安定した自然条件の中にある。イギリスの石造りの館などは、変わることのない永遠性を印象として与える。一方日本の方 は毎日のようにどこかで地震が起きるなど自然は不安定であり自然はコントロールできないものであるとハナからあきらめている。ゆえ に日本人は自然と共に生きる知恵を身につけた。その結果、仏教が入ってくる遥か以前に、日本列島に住む人々の心に「天然の無常観」 ともいえるものが生み出されていった。生きているものは必ず死ぬ。永遠に変わらぬものはないといった考えが、もっとも根本的な宗教 観として日本人の心にあると寺田は語っている。
 一方和辻は「風土」の中では、寺田がキーワードとした「地震」には言及せず、台風を持ち出し論じている。毎年、同じような時期に 同じようなルートでやってくることから、協力して事に当たる共同体が育っていったとする。和辻は倫理学者としての立場から、人と人 が助け合う心が、仏教で言うところの「慈悲」につながるという「慈悲の道徳が日本人にはあると考えた。日本人にとっては、特に近代 以降、宗教と道徳は入れ替えが可能だったのではないか。

4.庭と自然−神仏共存の共鳴盤
 近年京都見物をする人にある傾向が認められる。お寺の本堂前で祈っている人がほとんどなく、本堂を出、庭に出たときに立ち止まり 、見入っている人が多いようだ。庭を見ることで心の平安を求めているのか。日本人は、仏を本堂では感じず、庭の草木に感じているの か。そして、その庭のかなたには京の山並みが見える。庭はまさに心の共鳴盤である。
 日本の仏教が本当に日本人のものになるのは、平安時代であろう。最澄の比叡山、空海の高野山に代表される山の中での修行から生ま れた平安仏教が始まりといえる。その仏教は山とその地に鎮まっていた神々を尊重し、その脇に仏の本拠地を作った。例えば比叡曼陀羅 ・熊野曼陀羅は、山を中心とした自然を曼荼羅にし、その中に仏塔と社殿が棲み分けをしているかのように存在している。まさに、神と 仏が共存していた。
 日本の歴史には、戦乱をはさんで長期に続いた平和な時代が2回あった。それは、約350年間の平安時代と約250年間の江戸時代である。 これは、パクスロマーナやパクスブリタニカ、パクスアメリカーナのような覇権による平和とは異なる。神と仏の領域を棲み分け、平和 共存していたことが重要な役割を果たしていたのではないだろうか。日本の自然、山岳が神々と仏の世界を大きく包み込む共鳴盤のような システムを作っていた。そのため日本人は、宗教を語る時、絶えず自然と重ね合わせ、自分たちの信仰心を語り続けてきた。

5.道元と良寛−美と信仰
 季節の移り変わりの中に無常を感じ、心のあり方を反省する。このような日本人の感性を持った代表的人物として鎌倉時代の僧道元を 挙げる。道元は、難解な思想を持ち、晩年永平寺に篭り弟子たちに厳しい修行を課したことでも知られる僧である。信仰に生きた道元は 、美意識においても優れた感性を持っていた。川端康成によってノーベル賞の授賞記念スピーチで引用された「春は花、夏ほととぎす秋 は月、冬雪さえて涼しかりけり」という歌がある。春は花の中に、夏はホトトギスの声に仏はいる。春夏秋冬、自然は仏の気配に満ちて いる。この歌から川端は、日本人の死生観と美意識を見出していた。
 宗教の最高形態は芸術であり、芸術の最高形態は宗教である。日本人は信仰と美の世界は表裏一体と感じてきた。それは日本の自然的 景観と深いかかわりがある。
 道元に影響を受けた人物で近世末期の僧良寛も自然の中に信仰と芸術を見出した一人である。最澄、空海、西行など日本の仏教の代表 者たちは、全てのように終生和歌と書を手放さなかった。その一人、良寛が遺言のように作った歌がある。


「形見とて何か残さん春は花、夏ほととぎす秋は紅葉」


これは、形見は何も残さないが、四季の美を見て自分をしのんでほしいといった意味である。生と死を見据えた無常観の上に自然をじ っと見つめている。
 このような宗教的美意識は、はるか万葉の時代から千年以上も受け継がれてきたものであり、日本独特の宗教観といえるだろう。

6.「心」イズムと無の信仰−感ずる宗教の配電盤
 一神教は、神を信じるか否かという宗教である。日本人の信仰心は自然の中に神や仏の気配を感じるか否かというところに重要な特徴 がある。宗教といえば、一神教的な信ずる宗教のパターンで何事も考えがちであるが、世界には「信ずる宗教」があると同時に「感ずる宗 教」もあるのだということを、我々はこれから国際的な場面で主張していく必要がある。そのためには、まず我々が我々自身の文化や伝 統や宗教心が存在するのだということを、しっかり理解し、自覚していくことが必要なのではないかと思う。

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