本年度の第12回夏期セミナーは「グローバリゼーションの中の日本:理解と誤解の間で」と題し、現代の世界に広がるグローバル化・IT化そして
民族・地域紛争や異文化対立の時代に、われわれはどのように現状をとらえ対応してゆくべきかを考えてみることにしました。
昨年のセミナーでは、河合隼雄氏(文化庁長官・臨床心理学者)をゲストにお迎えし、アメリカのアカデミックなコミュニケーション学からひとまず身を引きはなし、
具体的な人間関係や日本文化・社会といった諸要素に目を向けることによって、大局の流れにからめ取られるのではないオールターナティヴな視点の模索がなされ、
その中で学校教育の具体的改善策についてもいくつかの提案がなされました(両氏の対談集『日本人とグローバリゼーション』講談社+α文庫2002年も参照のこと)。
今回は昨年の流れを引き継ぎながらさらにグローバリゼーション時代における「誤解の効用」に焦点をあて、1959年からスタンフォード研究所に赴任し現代アメリカのコミュニケーション学創立と
展開を目にしてきた加藤秀俊氏(国際交流基金日本語国際センター所長・社会学)による基調講演、および加藤氏と石井米雄氏(神田外語大学学長・東南アジア史)の対談によって
さまざまな角度から問題が提起されました。
基調講演で加藤氏は、人類史上における伝染病、帰化動植物、戦争・労働人口移動などの具体例をあげながら、文化接触と文化間コミュニケーションを「生物圏 Biosphere」、
「精神圏 Noosphere」および「記号・意味空間 Semioshpere」の3つの領域に分けて説明され、言語文化の混交と変容を肯定的にうけとめ利用する重要性を強調されました。
そして推薦図書として鶴見俊輔の『誤解する権利』(筑摩書房1963年)を挙げられ、引用されました。「学問や評論を商売にするようになってから…いかに多くの論争が誤解のうえになりたっているか
に気がつかざるをえない。(省略)誤解する権利と逆に誤解される権利というのもある。(省略)我々は自分たちの心情を直接的にみんなに手わたしすることはできないので…どんな動機を
その行動の背後に想定するかによって、ぜんぜんちがう意味をもつ行動として映ずる。論争という活動がもともと誤解する権利の活発な行使を前提としている以上、
むしろわれわれは誤解される権利を十分に活用して、自分で考えて意味のあると思う行動をどんどんつみかさねてゆくべきではないか。日常のつきあいの世界でも、
誤解される権利をもっと活発に行使してゆくほうが、からっとした空気をつくれるように思う」
また別の実例として、当初コメディーとして書かれたチェーホフの『桜の園』がのちに悲劇文学の代表として世界中で絶賛されたことに触れられ、文芸、テクノロジー、
商業などにおけるある作品(商品)がいったん作者の手を離れて受容されると、元来の意図とは違う解釈を生みそれが大ヒットにつながることもあると指摘されています。
このような偶発性をおそれず、それが新たな何かを再創造していくのだと認識することで、グローバリゼーションのパラドクシカルな効用もありえると締めくくっておられます。
しかしながら他方で、加藤氏と石井氏の対談で問題にされたように、グローバル化への自己適応は強いストレスを生じさせる諸刃の剣でもあります。
幸か不幸か日本はまだグローバリゼーションによる変化をせっぱ詰まった状況として感じていないのではないでしょうか。このことを自己批判したり悲観するのではなく、
現在すでにグローバル化を感得し変化をよぎなくされている人々の声に耳を傾け、必要に応じて柔軟な改革に着手していくことが望ましい対処法ではないかと思われます。
実際、このセミナーもグローバル化の波をうけつつあるのでしょう。今回のプログラムは、従来の異文化コミュニケーション学や言語文化研究のみでなく社会科学、
地域間関係などより幅広い研究領域をおもちの方々が参加されました。そして今回のセミナーの後半には、今年6月22日に正式発足した「多文化関係学会」との共催で個人研究発表会が設けられ、
様々な研究分野からの意欲的な報告で盛況となりました。また研究発表との同時進行で、今年もセミナー全体の衛星中継を担っていただいたメディア教育開発センター(NIME)主催の
公開パネル討論「21世紀における多文化共生に関する諸課題」が全国の提携大学を衛星でつないで開催されました。このような新機軸が次々と立ちあげられ、
重層的に領域横断的に協働してゆくことが、今後の夏期セミナーの活性化につながり、グローバル・ネットワークの一端としての役割を担えればと思います。
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